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ファッション豆知識

レース(9)

前回はボビン・レースの道具についてお話しましたが、今回はその起源と発展の歴史をたどってみたいと思います。

ニードルポイント・レースの元となった刺繍の起源は、青銅器時代まで遡るほど古いものでしたね。(「刺繍(2)」参照)
ボビン・レースは、「ブレイド(Braid)=組ひも」の技法から発達したと言われています。
レース(1)」で、「レース(Lace)」という言葉には「ひも」「ひもで縛る」といった意味があるとお伝えしましたが、それはこのボビン・レースが由来だからです。

「Lace」という言葉が初めて文献上に見られたのは、13世紀初期のイギリスの尼僧院の規約だったそうですが、ボビン・レースらしきもの自体は、刺繍と同様、古代まで遡ることができるようです。
古代エジプトの古墳から、レースのようなミイラクロスが出土していたり、2世紀から3世紀頃のエジプトのコプト(エジプトのキリスト教徒)の墓やインカ帝国の史跡からも、ボビン・レースの原型といえるようなレースが、糸を巻いたボビンとともに発掘されているそうです。

ブレイド(組ひも)は、縁飾りや生地をつなぐ飾りひもで、13世紀から14世紀のヨーロッパで発展しました。おもにイタリアやフランスでブレイドが作られ、フランスのパリにはブレイド専門店もあったようですが、多くは家庭の女性たちによって作られていました。

「パスマン(Passment:仏)/パスメント(Passment:英)」と呼ばれる衣服やカーテンの縁取りなどに施されるブレイドが「ボビン・レースの祖」と言われています。縁取りで使われるテープ状のレースもひも状のため、ボビン・レース、ニードルポイント・レースに関わらず、この名で呼ばれることがあります。

パスマンは、初めは素材に毛糸などが使われていたようですが、イタリア人によってシルク糸が導入され、ルイ14世の時代には金や銀などの金属系の糸や色糸も使われるようになりました。後に漂白したリネン糸が使われるようになります。

そのパスマンの中で、次第に細く、模様も繊細なレース状になっていったものが「レース」という意味の「ダンテル(Dentelle:仏)」と呼ばれるようになり、ボビン・レースとなっていったのです。

ボビン・レースは、ヴェネツィアとフランドルのアントウェルペン(Antwerpen:蘭)界隈で、両地域とも15世紀末には発祥していたと言われています。(ヴェネツィアで開発されてすぐに、アントウェルペンに伝わったという説もあります)
1493年に記されたミラノのスフォルツァ家の遺産相続書に、12個の骨製のボビンを使ったレースについての記述があり、それがボビン・レースと認識されるものの記述としては現在最古のものだそうです。初期の頃のボビンは骨で作られていたため、ボビン・レースは「ボーン・レース(Bone lace)」とも呼ばれていました。

アントウェルペンは「アントワープ(Antwerp:英)」といった方が、馴染みがあるかもしれませんね。あの「フランダースの犬」の舞台になった街です。
アントウェルペンのあるフランドル地方では、ニードルポイント・レースよりもボビン・レースを中心にレース産業が発展し、やがて「ボビン・レースといえばフランドル」というくらいの一大生産拠点となりました。

ヴェネツィアではこの少し後の1540年代に、あの刺繍レースのレティセラも登場していますが、ボビン・レースは、当時の精巧なレティセラやカット・ワークに比べて、技術も容易に習得でき、道具や材料も安価な上、当時家庭で行われていた紡績、縫製、織物などよりも収入が多かったため、ヨーロッパ中の女性たちがすぐにこの技術習得に取り組み、瞬く間にヨーロッパ中に広まりました。
ボビン・レースはニードルポイント・レースとともに、多くは慈善学校や修道院で作られることが多かったようです。

その拡大を促進したのが、「レース(7)」の冒頭でも触れましたが、印刷技術と商人の活躍でした。ヴェネツィアもフランドル地方も印刷技術が早くから発展していた地域で、多くの教則本や図案が印刷され、製品とともに商人たちによってヨーロッパ各国へ広められました。

ボビン・レースの現在発見されている最古の図案集は、1557年にヴェネチアのセッサ(Sessa)兄弟が製作した「ル・ポンペ:オペラ・ノヴァ(Le Pompe:Opera Nova)」と呼ばれるもので、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館(THE MET)に所蔵されています。THE METのサイトでもその図案を見ることができますが、当時主流の幾何学模様で、現代でもそのまま使われているような美しいパターンばかりです。

幾何学模様が主流だったというのは、当時のボビン・レースが、高値で取引されていた幾何学模様のニードルポイント・レースを真似て作られていたためで、16世紀中期以降はジェノヴァ、ミラノ周辺で多く作られていたようです。

16世紀末には襞(ひだ)がヨーロッパ各地で流行し、ヴェネツィアのレティセラやプント・イン・アリアと同様に、フランドル地方のボビン・レースも襞襟に使用されました。

17世紀初頭は、ジェノヴァのボビン・レースが高く評価されていたようですが、それはジェノヴァがもともと組ひもの産地として定評があったことを考えると、うなずけます。
この頃のデザインはバロック調が流行しており、ボビン・レースのデザインも幾何学模様から流線的なバロック調へと移り変わり、より精密で複雑なものとなっていきました。そのためボビン・レースもニードルポイント・レースと同じように、高い技術と多大な時間がかかる貴重品となっていました。中には、修道院で1枚のボビン・レースを仕上げるのに数十年かかかることもあり、40代で失明する職人もいたそうです。

とはいえ、重厚さが好まれたこの時代は、まだまだニードルポイント・レースの代表格である肉厚なヴェネツィアン・レースが市場を席巻していました。(「レース(3)参照」)

17世紀に入ると襞襟の流行は終息しましたが、代わって平らな大きなが男性市民の間でも流行し、レースの需要はますますうなぎ登りで増加していました。

それまでのバロック調の重厚さから軽やかさが好まれるようになってきたため、もともとイタリア製に比べてしなやかな風合いが特徴のフランドル地方のレースが、その特徴を活かした独自のスタイルを生み出し、市場に台頭し始めます。
また、フランドル、ノルマンディー地方は織物の中心地で良質なリネンが採れたため、高級ボビン・レースの産地としてイタリアをしのぎ、この地方のレース産業はさらに大きくなっていきました。

17世紀の半ばには、フランスのアランソン・レースの影響を受けたブリュッセルのボビン・レースが登場し、アランソン・レースを超えるしなやかさと繊細さで人気を博し、盛んに作られました。
このコラムを読んでいただいている皆さんは「アングルテール・レース」のお話を覚えていますでしょうか?ヴェネツィアのニードルポイント・レースとともに、ブリュッセルのボビン・レースが各国の財政を圧迫したため、その大口需要国であるフランスやイギリスで外国製レースの輸入禁止が発令されました。そのため人気のブリュッセル・レースに「イギリスのレース」という意味の名前を付けて密輸していたレースというのが、アングルテールでしたね。(「レース(6)」参照)ブリュッセル製レースであれば、ニードルポイント・レース、ボビン・レースともに「アングルテール」と呼ばれたようです。

17世紀末のフランドル地方では、ブリュッセル・レースのように、その頃ヴェネツィアン・レースに代わって市場に台頭してきたポワン・ド・フランスを模倣したデザインのものが多く作られ、1730年代にはアランソン・レースのような六角形の網目のネット地「ドロッシェル/ドゥロシェル(drochel)」が開発され、ブリュッセル・レースに多用されました。
その時に人気があるレースの模倣をしたり、そこから新しいスタイルを確立していったりして、フランドル地方のレース産業は、その規模を保ってきたのですね。

可憐なロココ調が流行した18世紀、花やつぼみなどの精巧なモチーフをやわらかいネット地にあしらった美しいフランドル地方のボビン・レースは、特にマリー・アントワネットをはじめとしたヨーロッパ王宮随一のファッショニスタたちが流行を牽引したフランス王宮で、大流行となります。軽量のしなやかで繊細なレースが好まれた18世紀から19世紀初頭にかけては、再びフランドル地方のボビン・レースの時代となり、その黄金期とも言われています。

ここまでのボビン・レースの歴史を見ると、各生産地のすう勢の激しさが印象深いですね。
イタリアのヴェネツィアとフランドル地方のアントウェルペンで登場した後、君臨していたヴェネツィアのニードルポイント・レースとフランスのニードルポイント・レースの台頭の間に、ジェノヴァ(イタリア)やブリュッセル(フランドル地方)のボビン・レースが台頭しては、巻き返されたり。ものが「レース」だけに、激しい競争が繰り広げられたのでしょうか(?!)

その激しい市場競争の中で、様ざまなデザインだけでなく新しい技法も生まれました。
レース(4)」でも少し触れましたが、ブリュッセル・レースの発展の中で生まれた、モチーフを別に作って後からつなげる「ピエス・ラポルテ」技法もそのひとつです。

次回からは、さらにボビン・レースの手法やその手法による様ざまなレースをご紹介していきたいと思います。お楽しみに。

文/佐藤 かやの(フリーライター)

写真はイメ―ジです。