ファッション豆知識

ネクタイ(2)

OpenCampus

5月になりました。
ついこの前やっと「春」になったと思ったら、あっという間に「初夏」。特に今年は、4月に入ってから一気に暖かくなり、桜をはじめとした春の花々が次々と矢継ぎ早に咲いたせいか、季節が過ぎていくのが早く感じます。

4月から新生活を始めた人は約1ヶ月が経ちましたが、新生活でネクタイをするようになった人は、スムーズに結べるようになった頃でしょうか。
またこの時期、ゴールデンウィークが過ぎた頃から、新生活の疲れがどっと出始め、「五月病」になる人も多いと聞きますから、くれぐれも心身ともに健康には注意してくださいね。

さて、前回はネクタイの起源のお話から、ネクタイの祖である「cravate(クラヴァット)」について、その名前の由来と言われているクロアチアが「ネクタイ発祥の地」として知られているというお話をしましたが、今回はそのクラヴァットのヨーロッパでの発展をみていきたいと思います。

OpenCampus

クラヴァットがヨーロッパ中の貴族に広まるきっかけとなったのは、ルイ13世の後を継いだ「太陽王」ことルイ14世(Louis XIV,1638-1715)が美しい刺繍レースがついた豪華なクラヴァットを好んで身につけていたことのようです。当時のヴェルサイユ宮殿は、ヨーロッパにおける流行の中心的存在で、刺繍レースも高い技術のものが集まっていましたから、後に続けとばかりに貴族たちは競って、クラヴァットを飾り立てていきました。

1660年頃のクラヴァットは、単に幅広のネッカチーフを首に巻いたものに過ぎなかったようですが、次第に洗練され、布地もモスリンなどやわらかいタイプのものが好まれ、主流になっていきました。

また、この頃の結び方は、首に2度巻いて1度結び、端を垂らして着用するなどシンプルなものでした。というのは、使用されている布自体が刺繍レースなどが施された装飾性の高いものだったからです。

その後、時代や地域によって様ざまな結び方が考案されますが、クラヴァットのヴァリエーションの変遷とは、大きくは「結び方の変遷」と言ってよいでしょう。その結び方、着用の仕方に合わせて素材や形も変化していきました。

ネクタイ 【Necktie】

<前略>

結び方は首に2度巻いて1度結び、端をたらす方法で、布地にはやわらかいものが選ばれ、中には精巧なレースのついたものもあり、ネクタイというよりはスカーフに近いものであった。

<後略>

OpenCampus

特にクラヴァットは、軍服の一部として着用されたため、クラヴァットの結び方の変遷は、しばしば戦争が変化の契機となったようです。

例えば、クラヴァットを数回ねじってから垂らした片方の端をコートの上から6番目のボタンホールに通して着用する「スティンカーク(Steinkirk,Steenkirk,他:英)/スタンケルク(Steinkerque,Steenkerque,他):仏」と呼ばれるスタイルがありますが、この名称の由来は、「スティンカーク(スタンケルク)の戦い」という戦争からきています。 1692年、現在ではベルギーに位置する「スティンカーク/スタンケルク」に駐屯していたフランス軍がイギリス軍に奇襲をかけられた際に、フランス軍の将校が急いでクラヴァットを結ばずにねじって、端をオーバーコートのボタンホールに通して出陣し、勝利しました。フランスではこの戦い以降1725年くらいまで、このスタイルはおおいに流行り、男性のみならず女性も真似するほどだったそうです。

OpenCampus

その後、細長いクラヴァットを蝶結びにして、襟元を少し華やかにしたスタイルなども登場します。

1770年代のクラヴァットは、細長くやわらかで流れるようなタイプでしたが、フランス革命の頃から再び幅広のタイプが出てきます。

18世紀末から19世紀初頭にかけては、高めのスタンド・カラー(ハイ・カラー)シャツに、このクラヴァットをあごが埋まるくらいに巻き付けて、前中央で小さく結んだスタイルが流行ったそうです。(「えり(4)」参照)

ネクタイ 【Necktie】

<前略>

1692年のスティンカークの戦をさかいにこの結び方は変り、片方の端をコートの上から6番目のボタンホールにとおすことが流行した。その後黒いリボンをちょう結びにして衿元を飾るスタイルが行われたが、フランス革命当時からふたたび幅広のスカーフがあらわれた。これはあごがかくれるほど高く巻きあげて、前中央で小さく結んで用いられ、ついでナポレオン1世の時代(在位1804~1815)には幅広のネクタイ(クラヴァットゥ)の下から衿をのぞかせる形が流行した。材質は絹、ビロードがほとんどで、白、黒、その他の色物が用いられた。

<後略>

フランスでは、フランス革命前からヨーロッパに広がっていた合理的な啓蒙思想の影響もあり、ファッションの装飾性は抑えられていく傾向にありました。特にフランス革命以後は、貴族的なものは排除され、クラヴァットも意図的にくしゃくしゃに結んだり、クラヴァット自体を着けないことが流行しました。

さて、このコラムでも何度か登場しているお馴染みの画像が出てきましたが、庶民のクラヴァットは、もともと貴族のような豪華なものとは別物で、画像のように単に幅広のやわらかい布を首に巻いたものに過ぎなかったようです。
クラヴァットはマフラーと同様保温性もありますし、シャツの汚れを隠すという機能もあるので、装飾アイテムというより機能アイテムとして広がったのではないかと思われます。

使用する布地自体がシンプルですと、結び方で個性を出すようになります。そのため、クラヴァット=タイの結び方には、実は私たちが想像しているよりも多くのヴァリエーションがあります。結び方については、また後ほどあらためてお話ししますね。

OpenCampus

けれども、王政復古時代に入りナポレオン1世(Napoléon I, 1769-1821)が革命以前の宮廷趣味を取り入れたことで、装飾的なクラヴァットが復活します。
おもに、ナポレオンの肖像画などにも描かれている宮廷服に合わせたレースのジャボ(Jabot:仏)のついた白い大型のものと、日常服に合わせた白い無地のスカーフ状の2種類のクラヴァットを使い分けていたそうです。
また、ナポレオン1世時代は、幅広のクラヴァットの下からをのぞかせるスタイルも流行しました。

クラヴァットが「タイ(tie)」と呼ばれるようになったのは、このナポレオン1世が大敗して失脚の原因となった「ワーテルローの戦い(1815年)」以降だと言われています。

次回は、引き続きクラヴァットのヨーロッパにおける発展をみていきたいと思います。お楽しみに!

文/佐藤 かやの(フリーライター)

写真はイメ―ジです。