ファッション豆知識

化粧(3)

前回は、日本における化粧の歴史を辿りながら、「日本の伝統化粧」についてお話をしました。
最終回は、庶民の化粧文化が花開いた江戸時代のお話を主にしたいと思います。

江戸時代に入ると、上流階級だけではなく庶民も化粧をするようになります。

この頃の化粧は、現在と同じように「外見の美」という目的が主でしたので、ファッションとして流行があり、その流行を主導していたのは、歌舞伎役者や遊女たちでした。女優やタレント、モデルが流行を牽引している今と同じですね。
そして「化粧」というものを民衆に視覚的に伝えたのは浮世絵版画であり、実践的に伝えたのは女髪結たちでした。

当時の化粧も、ベースメイクは白粉(おしろい)による「白塗り」が基本ではあるのですが、平面的な従来の日本の伝統化粧から進化させ、水溶いた白粉を手や刷毛(はけ)で肌に伸ばす際に、濃淡をつけて質感や立体感をつけるなど工夫をしていたようです。
そしてその上から粉白粉を丹念に丸い刷毛ではたき込み、余分な白粉は別の刷毛で拭い落とす、などと様々な刷毛を駆使して自然な美しい白肌を作りあげていました。
まるで現代のファンデーションのメイク術ですよね。

口は、相変わらず「小さい方が美しい」とされていて、口紅を唇全部には塗らず、中心だけにちょこんとつけて、おちょぼ口に見せていました。
頰紅は、白粉と紅を混ぜて使いました。
目の縁にアイライナーのように紅を引く「目弾き(めはじき)」という化粧法は、元は歌舞伎役者の舞台化粧として行われていましたが、やがて芸者や遊女が真似たことを機に、広く庶民の女性の間でも行われるようになったようです。現在の日本でも、芸者や舞妓の化粧に見ることができます。

その他、今の赤いマニキュアにあたる「爪紅(つまべに)」も行われていました。
江戸時代の女性は、とても細かなところまでおしゃれに気を遣っていたことがわかりますね。

そして、さすが町人文化が開花した江戸。
庶民向けの化粧品店が江戸の街中に登場しました。

中でも人気だったのは、白粉(おしろい)は京橋の「坂本屋」、紅は日本橋の「玉屋」や京都の「紅屋平兵衛」、というように看板商品のある専門店でした。実はこれが世界初の庶民向けの化粧品店なのだそうです!
ドラッグストアの元祖とも言える「小間物屋」では、化粧品だけではなく櫛(くし)や簪(かんざし)、袋物など雑貨も扱っていました。

白粉ひとつとっても、今と同様様々な銘柄があり、高級品から安価なものまで幅広い商品が揃っていたそうです。
また、白粉包みの紙製パッケージ「白粉包み」には、浮世絵師が描いた人気役者や美人画、白さをイメージさせる雪のデザインのものなどがあり、白粉を入れる「白粉三段重ね」と呼ばれる陶磁製の小さなお重のような器や白粉を水で溶く器などには、花や植物、鳥など美しい日本画が施されていました。
紅も美しいデザインのお猪口(おちょこ)や皿・碗・貝殻などの内側に、刷(は)かれた状態で売られていました。

江戸の女性も現代の女性のように、自分好みのものをあれこれと選べる楽しみがあったのですね。店頭でわいわいと買い物を楽しむ女性たちの様子が思い浮かびます。

和服は襟元が広く開くので、うなじにも白粉(おしろい)を美しく塗りました。

ファッションリーダーとして名高いフランス王妃マリー・アントワネットも、顔だけじゃなく首や肩にも白粉をはたいたことは前々回ご紹介しましたが、特に女性の首から肩にかけてのラインは色っぽさを醸し出すため、この部分の白塗り化粧は、現在の日本でも芸者や舞妓が行っています。

ちょっと面白いのは、日本のうなじの白塗り化粧は、襟足あたりを塗り残していることです。整えた襟足の下に、アルファベットの「W」のような二本足、三本足を引いて、塗らない部分を作ることで襟足の美しさを強調しています。芸者や舞妓の世界では、正月と八朔(はっさく=旧暦の8月1日)には三本足を引き、それ以外(お座敷など)は二本足を引いているそうです。
「塗らない」、つまり「引く」ということで美しさを表現しようとするのは、とても日本的な美意識だと思います。

今度、京都などで芸者や舞妓に遭遇したら、ぜひそっと「後ろ姿の美しさ」を見てみてくださいね。

化粧が一般に広がったと言っても、それは芸能に携わる者や遊女などの一部のおしゃれ上級者の間のことで、普通の庶民は普段は素顔で、祭礼や年中行事などを行う「ハレ」の日に薄化粧をした程度だったようです。

地域差もあり、京都・大坂の化粧は濃く、江戸は薄く、素顔も多かったそうです。これは現代の日本でもその傾向があると言われていますが、まさか江戸時代からのことだったとは驚きですね。

江戸時代後期に書かれた美容本「都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)」には、「美人の条件」として「色の白さが第一条件である。色の白さは顔の七難をも隠す」と書かれているように、江戸時代は「白塗りで白く作る肌」ではなく、「肌自体の美白」が美しさの条件だったのです。
今でも理想の肌は白く透明感のある「赤ちゃん」の肌ですよね。

江戸の庶民の女性が薄化粧もしくは素顔でいられたのは、美肌、つまりスキンケア術に長けていたからなのです。

スキンケアの基本といえば、「洗顔」です。

江戸時代に使われ始めたのは 「糠(ぬか)」や生薬を使った「洗粉(あらいこ)」と呼ばれる洗顔料でした。糠は、タンパク質や脂肪分が含まれ、汚れを落としながらも、保湿性の高い天然のクリームのような役割もしていました。洗粉は、小豆などの粉をベースに数種類の生薬や香料を混ぜた洗顔料で、豆に含まれるサポニンと呼ばれる発泡物質が、汚れを落とし易くしてくれました。

肌を整える「化粧水」も豊富に出回っていました。

中には自分の肌にあったものを手作りしている人たちもいました。
先ほどの美容本「都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)」にも、「花の露」というノイバラ(日本の野バラの代表種)の花から作る化粧水が紹介されています。バラの花びらから作られる蒸留水は、香りが良いだけでなく保湿力や殺菌力があり、中東やヨーロッパなどでも早くから薬用として使用されていました。(「香水」の回参照)
その他、今でも愛用者の多い「糸瓜(へちま)水」なども、江戸時代に手作り化粧水として人気でした。とはいえ、糸瓜の蔓(つる)を切って、切り口を下にして瓶に挿し、ぽたぽたと落ちてくるのを集める、といったように作るのには時間と手間が多くかかりました。
しかし、女性の美肌を求める気持ちの前には、その時間も手間も「美」を作るエッセンスだったかもしれません。

日本の白粉(おしろい)は、飛鳥時代に初めて国産のものが作られた以降も、ずっと水銀や鉛といった有毒な原料で作られていました。
そして西洋と同様、明治時代にはその害が論じられ、国産の無鉛白粉が発売されましたが、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったため、害があることが知られていても、昭和初期まで使われ続けたそうです。

明治時代に日本人のファッションが和装から洋装に変わるのに合わせ、化粧も西洋化していきました。
大正時代には、ファッションと同様、和風の化粧をベースに西洋のポイントメイクをするというような和洋折衷の化粧が流行り、白だけだった白粉も、ベージュや赤みを帯びた今のフェイス・パウダーに近いものも使われ始めました。
最先端のファッショニスタである「モダンガール(モガ)」と呼ばれる都会の女性たちが、丈が短くなったスカートに断髪といった革新的な「ギャルソンヌ・スタイル」(「ワンピース」の回参照)をし、西洋風のアイシャドーや口紅を唇全体に塗った化粧をして、注目を集めます。

以降、白粉は歌舞伎役者、芸者や白無垢の花嫁の化粧などでくらいしか見られなくなり、様々な流行と変遷はあるものの、ファンデーションが基本の今の化粧になりました。

けしょう化粧

化粧水や洗剤としては、へちまの水、ぬかぶくろ、さくつ(澡豆=あずきの洗粉)などが知られており、これらは江戸時代においても用いられている。また武士の間には豪勇のしるしとしてひげをたてることが流行し、これを<ひげまん>とよんだ。江戸時代にはいり化粧はますますさかんになり、一般に自然な化粧が行われた。また髪型の発達はとくに著しく、前述のような化粧料に加えてばらの花からとった<花の露>とよばれる化粧水、美髪料としての<伽羅(きゃら)油>などが用いられた。おしろいには <御所おしろい>と<京おしろい>があり、前者は庶民の間に使われ、後者は夜の姿をあでやかにするために用いられた。おしろいをつけることは婦人のたしなみで、ぜいたくとはされなかった。また紅には<病をいやす>という意味もあり、<つめ紅>と称して今日のマニキュアにあたるものも行われている。

<後略>

けしょうひん化粧品

<前略>

江戸初期にはお歯黒が儀礼化し、末期には口紅が流行。また洗顔用の化粧下に<江戸の水><京の水>が流行し、洗顔用の<ぬか袋>が流行した。しかし近代的化粧品の発達は明治以後のことである。現在では個性を生かす化粧法となり、化粧の観念そのものが体の表面だけでなく、内部から美しくするという観念に移りつつある。

「化粧」はファッションの、コーディネートの一部。
その後の流行の変遷まで追うと本当に話が終わらないので、今回はここまでとしましょう。

つい、ルーティーンになりがちな化粧ですが、こうして世界と日本の歴史の中での様々な役割や変遷を知ると、試してみたくなったアイディアもあったのではないでしょうか?
日常を振り返る良い機会の今、部屋で様々な化粧にトライしてみてくださいね。

文/佐藤 かやの(フリーライター)

写真はイメ―ジです。