ファッション豆知識

レース(5)

毎日暑い日が続きますね。
夏本番の街では、涼しげながらも上品なレースのファッションが人気のようですが、多くのショップではすでに夏のセールも終わり、秋物が並び始めました。
春夏物に続き、秋物にもレース素材が多く使われており、まだまだレース人気は続きそう。

さて、前回ご紹介したフランスのレースは、師としたヴェネツィアやフランドルをしのぐ力をつけ、かつてヴェネツィアン・レースがヨーロッパを席捲したようにヨーロッパの他国にも拡がっていきましたが、ここで今一度、ヨーロッパのニードル・レースの元祖である「プント・イン・アリア(Punto in aria)」を生んだ”レース王国”ヴェネツィアに戻ってみたいと思います。

優れた技巧と美しさで「糸の宝石」ともいわれるヴェネツィアン・レースは、交易で繁栄したヴェネツィア共和国が、ヴェネツィアン・グラスとともに国を挙げて力をそそいだ特産品です。

その生産の拠点として有名なのが、ブラーノ/ブラノ(Burano)島。
ブラーノ島は、ヴェネツィアの一部である4つの小島で構成される群島で、漁業の町です。
カラフルな家並みも人気の観光地ですが、これはインスタ映えなどをねらった演出ではありません。この色とりどりの家の色は、漁師が海から戻る際に、霧の中でもどこが自分の家か判別できるように彩色されたそうです。

余談ですが、ヴェネツィアン・グラスで有名なのは、ブラーノ島近くの「ムラーノ(Murano)島」。ちょっと間違えやすい名前ですね。
壊れやすいヴェネツィアン・グラスに代わる輸出品として、ヴェネツィア商人に目をつけられたのが、ブラーノ島の刺繍レースだったようです。

「プント・ブラーノ(Punto Burano)」「ポワン・ド・ブラーノ(Point de Burano)」と呼ばれるレースがありますが、現在この名で紹介されるレースは島の伝統のスタイルのものというより、一度衰退したレース産業を復活させた後のものを指すことが多いようです。
ですので、ブラーノのレースをご紹介するには、少しこの島のレース産業の歴史を簡単に追ってみたいと思います。

この島のレース作りは、男たちが漁へ出ている間、女たちが漁に使う網の補修などの針仕事にはげみ、その技術が刺繍やレース作りに発展していったとも言われています。

14世紀末に、モロシーナ・モロシーニ(Morosina Morosini)というヴェネツィア貴族の女性がニードル・レースに魅せられ、この島にレース工房を作り130人のレース職人を雇い入れたのを機に、レース産業が漁業をしのぐ勢いで島の重要産業に発展しました。
1500年頃のブラーノ島では、17世紀前半に登場したといわれるプント・イン・アリアに先立ち、すでに針と糸だけでレースが作られていた、という研究もあり、プント・イン・アリア自体を「プント・ブラーノ」と呼ぶこともあるようです。

ともかく、すでに15世紀にはこの島の手の込んだ美しいレースは名声を得ており、たちまちヨーロッパの宮廷や教会の貴人たちから、富と権力の象徴として熱望されました。栄華を誇ったヴェネツィアの富を支えたのは、この島の女性たちの手仕事だったといっても過言ではありません。

その後前回前々回のフランス・レースのお話で何度か登場しているコルベールが、フランス王立のレース工房を作る際に大勢引き抜いて連れていってしまったのが、このブラーノ島のレース職人たちでした。
ヴェネツィアはレース職人をこの島に集めて、高度なレース技術を門外不出のものとして厳しく管理していたにも関わらず、高い賃金で他国が職人を引き抜いていくことが多くあったようです。
技術流出の防止策として興味深いのは、ひとり1種類の工程しか習得出来ず、例えば7つの工程があるレースは、それぞれの技術をもった職人が7人揃わないと完成しないようになっていました。

18世紀に入ると軽いレースが好まれ、フランドルのボビン・レースやフランス・レースがヴェネツィアン・レースに変わって台頭し、ヴェネツィアのレース産業は衰退してしまいます。
この頃ブラーノ島では、フランドルのボビン・レースをニードル・レースの技法で模倣したレースを作っていたこともあり、それを「プント・ブラーノ」と呼ぶこともあるようです。

そして1797年、ヴェネツィア共和国の崩壊とともにヴェネツィアのレース産業も終わりを告げます。
といっても、まったく作られなくなったのではなく、それ以降は家族経営の小さな工房で地道に作り続けられ、その秘伝の技術は母から娘へと細々と継承されていきました。

レース産業が衰退してしまったブラーノ島の人びとは、しばらくは漁業で苦しい生活をしのいでいましたが、その頃襲った大寒波により漁業にも打撃を受けると、飢餓の危機に直面します。
そこで、名家サヴォイア家出身のイタリア王妃マルゲリータ(Margherita di Savoia)の庇護のもと、アンドリアーナ・マルチェッロ(Andriana Marcello)伯爵夫人や政府高官のパオロ・ファンブリ(Paolo Fambri)など賢明な貴族や政府高官が率先して、この島のレース産業を復興させるプロジェクトが始められました。余談ですが、このマルゲリータ王妃はあのピザのマルゲリータの由来になった人です。

手始めに、1872年にレース学校が設立されました。そしてヴェネツィアン・レースの黄金時代の技術を持つ唯一存命だった職人、ヴィンチェンツァ・メモ(Vincenza Memo)、通称チェンシア・スカルパリオラ(Cencia Scarpariola)が探し出されます。当時80歳の彼女から門外不出とされていたその伝統の技術を、小学校の教師であったアンナ・ベローリオ・デステ(Anna Bellorio d’Este)が教えてもらい、彼女から島の少女たちに技術が教えられました。急速に若いレース職人が増えて、1875年までには島のレース職人は100人を超えていたそうです。

復活したブラーノ島のレースは、レティセラやプント・イン・アリアやプント・ローザのような古いデザインのコピー、またはそれを当時の流行にアレンジしたものでした。多くの場合、これを「プント・ブラーノ(ポワン・ド・ブラーノ)」と呼ぶようで、そのため独特のスタイルというよりは、伝統的なスタイルのバリエーションといった方がよいかもしれません。ブリッドのないネット地のレースもありましたが、共通していたのは、使用されている糸が高品質のものであることです。古い伝統的なスタイルが19世紀では再評価されたこともあり、この高い技術と品質のブラーノ島のレースは再び人気を博し、1915年に第一次世界大戦が勃発するまでこの島のレース産業は繁栄しました。

ブラーノ島のレース学校は1970年に閉鎖されましたが、この学校の建物は現在、レース博物館(Museo del Merletto)になっており、16世紀以降の貴重なレースや資料が展示されています。館内では、島の女性たちの実演も見ることができるそうです。ヴェネツィアン・レースの歴史をたどるだけでなく、芸術品としても価値の高いレースを見るだけでも、行ってみたい場所です。

現在観光地としても人気の高いブラーノ島には、あちらこちらにレースの土産物を売る店が軒を連ねていますが、本物の上質なハンドメイド・レースは希少で高価なので、なかなか気軽に買えません。中には中国製の安価なものがあるようなので、必ず購入する時はMade in Buranoであることを確認しましょう。
ニードル・レース作りは大変労力を要する手作業なので、昨今は後継者不足に悩まされており、本物のブラーノ・レースは今後もっと手に入れにくくなると言われています。なんとか復活をとげたブラーノ島のレース作りの伝統は、守りたいものですね。

少し時代は戻りますが、ヴェネツィアで考案された最後のニードル・レースは、1680年頃に考案された「ポワン・ド・ネージュ(Point de neige)」といわれています。
(ボビン・レースの「ポワン・ド・ネージュ」とは異なるものです)
ポワン・ド・ネージュの「neige」とはフランス語で「雪」を意味するように、雪の結晶のように小さなモチーフで構成されている繊細なレースです。
ブリッドは規則的な網目ではなく装飾されていることが多く、縁にはフランス・レースの影響でピコットがついていました。

このレースを生んだ以降のヴェネツィアは、流行のフランスやフランドルのデザインのレースを作る製作所と化し、オリジナルのデザインを生み出せずに衰退していきました。
また、18世紀末の世界はアメリカの独立やフランス革命などが勃発し、王や貴族による支配が終焉を迎えており、権力の象徴でもあった贅沢品のレースの需要はヨーロッパ全体で急激に落ちました。
そして、ヴェネツィア共和国もフランスのナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)によって1797年に滅ぼされ、ヴェネツィアン・レースは先のブラーノ島で復活するまで表舞台に出てくることはありませんでした。

ですので、ブラーノ島のレースの復活を可能にした80歳のおばあちゃん、ヴィンチェンツァ・メモ(通称チェンシア・スカルパリオラ)は、ヴェネツィアン・レースの歴史においては、その伝統を救った英雄として、今でもレース・ファンの間では語り継がれているのです。

次回は、その他の国のニードル・レースをご紹介したいと思います。お楽しみに。

文/佐藤 かやの(フリーライター)

写真はイメ―ジです。