ファッション豆知識

化粧(2)

前回は、主に海外の化粧の歴史についてお話をしました。

今では美しさを目的としている化粧も、歴史的な変遷を辿ってみると、その目的が「外観の美」だけでなく、「宗教的」「医療的」「権威的」など多くの役割があることがわかりました。
今回は私たちの国、日本の化粧についてのお話です。

今では洋服と同様、私たち日本人のメイクは、西欧式をベースにカスタマイズされたものとなっていますが、「日本古来の化粧」といったら、みなさんはどのような化粧を思い浮かべるでしょうか?
「源氏物語絵巻」に出てくるような平安美人、歌舞伎役者、芸者や白無垢の花嫁の化粧などで見られるように、真っ白な白粉(おしろい)で塗られた顔に真っ赤な口紅、といったイメージではないでしょうか?

白塗りに赤い口紅、というと前回ご紹介したイギリス女王のエリザベス一世の厚塗り化粧と一見同じですが、日本にも古来白い肌を「美」とする「美白信仰」があったのでしょうか?

日本の化粧もはじまりは、儀式や呪術といった「宗教的」意味合いが強かったようです。

古墳時代の3世紀後半の古墳から、顔や身体を赤く彩色した埴輪が出土したり、古墳内の壁画に赤く塗られた人物が描かれていることから、当時の人々がこのような赤い顔料を用いて、顔や身体に化粧を施していたことがわかります。また、「日本書紀」や「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」などの文献にも、当時の日本人が赤い化粧をしていた記述がみられます。

特に、目や口の周りが赤く塗られていることから、「目や口という“穴”から、悪霊や悪い気が入ってこないように」という「呪術的」な意味合いで、化粧が行われていたと考えられています。いわゆる「魔除け」ですね。

なぜ「魔除け」に「赤」が使われたのかは、定かではありません。
身近にあった他とは違う「特別な色」が「赤」だったのかもしれませんし、「血」や「太陽」など「生命」を感じさせる色だからかもしれません。

「赤化粧」というと、前回ご紹介したアフリカのヒンバ族も、全身を赤く塗って生活をしていましたね。彼らは「オーカー」と呼ばれる土の赤いものを原料としていますが(オーカーは赤の他にも黄色やオレンジ色など、含まれる成分で多種の色があります)、日本も酸化鉄などを含む「赤土」と呼ばれる土を使っていたという説があります。
また、「魏志倭人伝」には鉱物性顔料を意味する「朱丹」という記述があるので、鉱物を砕いた顔料も使用されていた可能性もあります。
とすると、鉱物性の毒で眼病などの予防をしていた古代エジプト人と同様、日本の古代人の化粧も、「医療的」効果という目的もあったのかもしれませんね。

その他に日本では、植物の紅花(ベニバナ)も使用されていたことがわかっています。邪馬台国があったのではないか、といわれている奈良県の纒向(まきむく)遺跡の3世紀中頃の溝から、大量の紅花の花粉が出土されました。紅花は化粧の他、染料として使われていたようです。

このように、日本における最初の化粧は「魔除け」を目的とした「赤い」化粧だったようですが、では「白い」化粧は、いつ頃どのように日本で始まったのでしょうか。

「美白信仰」は西洋だけでなく、東アジア一帯にも古くからあったようです。

紀元前8世紀に書かれた中国の「詩経」には、すでに白い肌に対する美意識があったことがうかがわれる詩があるそうです。

その美意識が、大陸や半島から他の文化とともに日本に伝播しました。
飛鳥時代には、遣隋使によって鉛を使った白粉(おしろい)や紅などの化粧品とその化粧法が入ってきました。それに倣い、日本でも観成(かんじょう)という僧によって、初めて水銀や鉛から白粉が作られ、これを女性の持統天皇に献上したところ、天皇は大変喜び、褒美を与えたと「日本書紀」に記されています。

今年(2020年)の3月末に、12年がかりの修復を終えた高松塚古墳の壁画に描かれた「女子群像」は、「飛鳥美人」と言われていますが、カビなどが取り除かれた後には、白い顔に赤く塗られたおちょぼ口の美人像が確認できます。

けしょうひん化粧品

<前略>

日本では持統天皇(687〜696)時代に化粧品ができたといわれるが、古墳時代の埴輪(はにわ)の両ほお、ひたいなどが赤く染められているのが発見されている。平安時代には、まゆ毛を抜くことが行われた。

<後略>

解説:「新・田中千代服飾事典」より

その後の奈良時代の美人は、正倉院の「鳥下立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」に描かれているような女性で、顔を白粉(おしろい)で白くし、頰にはうっすらと赤みを入れ、小さな口に濃い紅を差し、「花鈿(かでん)」・「靨鈿(ようでん)」と呼ばれるポイント・メイクが施されているのが特徴です。
これはインドの影響を受けた当時の中国の「唐」の宮廷で流行していた化粧法で、眉間などに描く赤い模様が「花鈿」、頰や口元に描く赤い模様が「靨鈿」です。「花鈿」は現代でもインドのビンディー、「靨鈿」は「スター・ウォーズ」シリーズに登場するパドメ・アミダラのメイクにも見られますよ。

赤いポイント・メイクは白い肌を際立たせ、華やかに見せる狙いもありますが、日本の白粉も西洋と同じく、鉛や水銀などの有毒な成分を含んでいましたから、西洋の「つけぼくろ」のように、シミや肌荒れを隠すためでもあったかもしれませんね。

こうして日本の化粧は、古代の「魔除けの赤化粧」から「美の白化粧」へと変遷していきました。

平安時代になると、それまでの大陸や半島から伝来したものではなく、男性の「束帯(そくたい)」や女性の「十二単(じゅうにひとえ)」のような「平安装束(しょうぞく)」と呼ばれる日本独自のファッション文化が生まれました。それに合わせて化粧も、日本独自のスタイルを確立します。

「平安美人」といえば、「源氏物語絵巻」に出てくるような長く豊かな黒髪、ふくよかな真っ白な顔に「引眉(ひきまゆ)」(眉毛を全部抜くこと)をしてから細い弓形の眉や楕円形の「殿上眉(てんじょうまゆ)」を眉墨で描く「置眉(おきまゆ)」をして額を広く見せ、小さな口の下唇だけほんの少し紅を差す、といった様相です。「十二単の雛人形」と言ったらイメージしやすいでしょうか。これが「日本の伝統化粧の礎」と言われています。

主に鉱物を原料にした白粉(おしろい)も、紅花を原料にした口紅も、当時としては貴重な原料が使われているため、化粧は皇族、貴族だけのものでした。(ただし、「白拍子(しらびょうし)」と言われる歌舞を行う芸人も、こうした化粧をして全国各地を行脚したため、化粧が広まることとなったようです)

化粧は「高貴な者」の印ですから、もちろん男性も化粧をしました。

「公家(くげ)」と呼ばれる皇室とその周辺の貴族による宮廷文化が花開いた平安時代は、男性もおしゃれに相当気を遣ったようです。
豪華な装束をまとい、白塗りの顔に置眉(おきまゆ)をし、口紅を塗ってお歯黒(おはぐろ)もするといった化粧をしていたようです。
公家は自分のことを「麻呂(まろ)」と呼んだので、額の上方にちょこんと置かれた「殿上眉」を「麻呂眉」と呼ぶこともあります。「麻呂」と聞くと、なんとなくあの少し不気味な白い顔が浮かぶ人もいるのではないかと思います。

後期には平家に代表されるような「武士」が台頭してきますが、彼らも憧れである宮廷文化に倣い、公的な場に出る際は、公家の男性のように化粧をしました。
上流階級の文化である化粧をすることで、「高貴さを示す」という権威的意味合いがあったのでしょう。ゆえに、どんどん白く厚塗りになっていったそうで、そのあたりも西洋と同じですね。

男性の化粧は、「質実剛健」を重んじる武家社会の鎌倉時代にはいったん下火になるも、公家文化が復興した室町時代を経て、最終的には幕末まで続いたそうです。

その他一般の上級武士も、主君と対面する際、顔色を良くするために薄化粧をしたり、高位の武将は合戦時に、万が一敵に首を取られた場合を考えて薄化粧をすることもあったとか。このような人の尊厳を保つような意味合いは、現代では亡くなった方の顔を整える「死化粧」に残っているものと思われます。

「日本の伝統化粧」の色は、顔に塗る白粉(おしろい)の白、口紅や頬紅の赤、お歯黒(おはぐろ)や眉化粧に用いる黒の三色より成り立っている、と言われます。
「白」と「赤」は、西洋も東洋も共通の「美」のようですが、お歯黒の「黒」は東洋独特です。

「お歯黒」は文字通り、歯を黒く塗ることです。
最近は時代劇などでも滅多に見ることはないので、知らない人も多いかもしれませんね。お歯黒は、浮世絵や古い映画などで見ることができますが、見るとちょっとギョッとします。現代の感覚だと決して「美しい」ものとは言えません。
今では、歯は「白さ」が美しさの基本です。
ではなぜ、昔の人は歯を黒く塗ったりしたのでしょうか?

日本での起源は、古墳時代まで遡るそうです。
あの聖徳太子も虫歯や歯槽膿漏の予防で、お歯黒をしていたと言われています。

平安時代には高貴な公家の化粧として流行ったお歯黒も、その後「成人の印」とする「通過儀礼」として定着していきました。

江戸時代には、女性が結婚するとお歯黒をし、出産すると引眉(ひきまゆ)をしたので、「既婚女性」を象徴する化粧になりました。黒い歯は「他の男の色に染まらない」という「貞女の証」と見る向きもあるそうですが、単純に歯が黒いと色気が削がれて浮気の心配が無くなるのではないか、と筆者は思ってしまいます。

能面でも見られるように、お歯黒は引眉とセットで施されるので、その様相は「美しい」というよりもちょっと「不気味」でもあります。未婚でも芸者や遊女は好んでこの風変わりな化粧をしたようです。以前はあった「高貴さ」への憧れでしょうか。それとも、抑えることで匂い立つような「妖艶さ」を演出したのでしょうか。

この「お歯黒」と「引眉」という風習は、欧米からは奇異に見えるだろうと、明治に入り日本が文明的な近代国家を目指すにあたり、当時の貴族である華族に対して禁止令が出されました。しかし、当初はなかなか徹底されなかったので、洋装を初めて採用した昭憲皇太后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性たちもお歯黒・引眉をやめることになりました。以降、徐々に一般の女性たちも止めるようになり、大正時代には全国的に衰微していきました。
ただ、第二次世界大戦の初期頃でも、地方においてはお歯黒の姿を見かけることもあったそうで、これだけ根強くこの風習が続いたのは、タンニンなどの虫歯・歯槽膿漏予防など「医療的」機能があったからではないか、とも考えられています。

「日本の伝統化粧」を簡単に見ていくだけでも、多くの発見がありますね!
まだまだ「化粧」についての面白い話は尽きないので、この続きは次の最終回をお楽しみに。

けしょう化粧

<前略>

日本では古墳時代にすでに赤い色料を用いてほおを染めていたことが埴輪(はにわ)によって知られており、また南方から伝わった風習として歯を黒く染めることも上代から行われていた。7世紀におしろいが中国よりもたらされたが、このころから香料も用いられていたと考えられ、平安期には貴族階級の女子や遊女の間でおしろいを用いた厚化粧が流行し、男子も薄い化粧をしたことが知られている。室町時代には女子の成年に達したしるしとして<お歯黒>が行われ、またまゆ毛を抜いて顔の上部に太くまゆを描く<まゆ引き>ということも行われている。

<中略>

その他お歯黒の風習は、貞節のしるしとして既婚婦人の間で行われた。<入れぼくろ><入墨(ずみ)>なども行われたが、これは飾りというより迷信的意味の方が強かった。明治にいたり欧米の化粧法がもたらされ、化粧および化粧品は一変し、かねつけ(お歯黒)などの風習も行われなくなった。

<後略>

解説:「新・田中千代服飾事典」より

文/佐藤 かやの(フリーライター)

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