ファッション豆知識

レース(7)

前回はフランドル地方、前々回はヴェネツィアというレース作りの二大拠点の美しいニードル・レースをご紹介しましたが、ふと考えてみると、この2つの地域にはレースを産業として発展させた共通点が見出せます。それは、印刷技術と商人の活躍です。
フランドル地方もヴェネツィアも、印刷技術が早くから発展していた地域です。レースの作り方や図案などの印刷物が多く作られて他国に渡り、レースの技術が広く伝えられることになりました。そして、東インド会社やヴェネツィア商人が、自国のレースを主力商品として多くの国に売った結果、この2つの地域のレース産業は隆盛を極めたと言えるのではないでしょうか。

この印刷技術と商人の活躍によって、アイルランドのようなヨーロッパの端の地域でも、17世紀にはレース作りが始まっていたそうです。

17世紀にはレース作りが始まっていた、とはいえ、「産業」と言うにはほど遠かったアイルランドのレース作りは、19世紀半ばにアイルランドを襲ったジャガイモ飢饉で転機を迎えます。

1845年から1849年にかけて、アイルランドの主要食物であるジャガイモが疫病により枯死したことで飢饉が起こりました。この飢饉は、アイルランドの歴史を「飢餓前」と「飢餓後」に分けて考えられるほど決定的な影響を与えたため、「Great famine(大飢饉)」と呼ばれています。
この大飢饉による貧困対策として、雇用も創出する様ざまな工芸品の生産と輸出に注力することになり、レース作りはその工芸品のひとつとして取り組まれました。
あのヴェネツィアのブラーノ島のレース産業が復活したのも、大寒波によって主力の漁業が打撃を受け、飢餓の危機に直面したからでしたね。「(レース(5)」参照)アイルランドのレース産業も、こうした死に直面する過酷な状況から始まったのです。

現在アイルランドのレースというと、かぎ針編みの「アイリッシュ・クロッシェ・レース(Irish crochet lace)」が有名ですが、このレースが他国でも認知されるようになったのは、この飢饉対策で多く輸出されたためです。アイリッシュ・クロッシェ・レースについてはまた後ほどお話するとして、それだけでは不充分だったのでしょう、当時ヨーロッパ諸国で高値で取引されていたニードル(ポイント)・レースに着目し、外貨を稼ぐ新しい「アイリッシュ・ニードルポイント・レース(Irish needlepoint lace)」の開発にも着手しました。

いくつかの地域を中心にアイルランドのニードル・レースは作られましたが、最も成功したのはユーガル(Youghal)で発展した「ユーガル・ニードルポイント・レース(Youghal needlepoint lace)」でしょう。「ユーガル・レース」と呼ばれ、今でも親しまれているレースです。

非常に細い綿糸を使用し、おもに野生の花や葉のデザインが描かれています。花びらをステッチで強調してコントラストをつけているのが特徴です。衣装などの装飾のほか、扇やハンカチーフなども作られています。

ユーガル・レースは、プレゼンテーション修道院長のメアリー・アン・スミス(Mary Ann Smith)のもとに、ヴェネツィアン・レースが持ち込まれたことから始まりました。彼女は持ち込まれた現物からその作り方を解明し、技術を習得します。その習得した技術を、まず修道院の中で針仕事に興味を示した少女たちに教え始めました。そして1852年には修道院レース学校(The Convent Lace School)を開校し、より多くの女性がレース作りの技術を習得していきました。

このレース学校で作られたユーガル・レースは、その後イギリス国王エドワード7世(1841-1910)が結婚する際に、王妃となるアレクサンドラ(Alexandra)にこのレースのショールが贈られたのをきっかけに、イギリス王室御用達となりました。
その名声は他国にも広まり、ヴァチカン、シカゴ、ロンドンなどで行われた数々の国際レース展示会などでも受賞が長年続いたそうです。

飢餓による貧困対策として始まり、学校が設立されて多くの技術者が生まれたのは、ヴェネツィアのブラーノ島のレース産業の復活と同じですね。(「レース(5)」参照)
レースは、人びとの生活を救う重要な工芸品だということがよくわかります。

ユーガル・レースがイギリス王室御用達となったという話をしましたが、イギリス王室はヨーロッパにおけるレースの大口需要者でした。

レースを愛用したイギリスの貴人、というと、真っ先に頭に浮かぶのはエリザベス1世(1533-1603)ではないでしょうか。彼女の肖像画で有名な「エリザベザン・カラー/エリザベス・カラー(Elizabethan collar)」と呼ばれる巨大な襞(ひだ)襟は、すべてレティセラでできています。また、彼女が愛用していた襟のひとつにレースやカットワークでできた「リバト/ラバート(Rebato)」という幅広の輪状の襟がありました。(「えり(3)」参照)
レース製の大きな襟は、エリザベス朝時代の貴人たちのマストアイテムだったと言えるほど大いに用いられました。

そのためレースはイギリスの国庫をおびやかし、貨幣の大量流出防止と自国産業の保護を目的として1662年にはレース輸入禁止法が成立しています。この時イギリスの商人たちは、「アングルテール(Angleterre)」というフランス語で「イギリス」という意味の名がついたブリュッセル・レースを密輸していたというお話を前回しましたね。

面白いのは、これほどレースの需要が多かったにも関わらず、イギリス独自のニードル・レースというものがあまり見かけられないことです。
後ほどお話する予定の「ボビン・レース(Bobbin lace)」や「タティング・レース(Tatting lace)」ではイギリス独自のものが見受けられるものの、ニードル・レースは検索してもほとんど出てきません。

唯一名前が出てくるのは、「ホリー・ポイント(Hollie point)」と呼ばれる18世紀から19世紀に登場した、ベビー服に使用されるニードル・レースです。ボタンホール・ステッチなどで布地に作られる穴(Hole)で、モチーフが描かれていることからこの名がついたそうです。

デザインは花や動物のほか、ベツレヘムの星、平和の鳩、栄光の冠、受胎告知のユリ、生命の樹などの宗教的なモチーフが描かれています。宗教的なモチーフが描かれるのは、このレースがもともと幼児の洗礼用の衣服に使われていたからで、そのため「ホーリー・ポイント(Holy point)」とも呼ばれるそうです。

ジェームズ1世(1566-1625)時代初期に、ピューリタンが初めてこのレースを一般的なベビー服に用いたと言われています。
このレースは、プロのレース職人によって作られるというより、家庭内で発展した庶民のレースでした。そのせいか、家族の愛情と祈りを感じるような、温かみのあるあまり凹凸のないなめらかな肌触りのレースです。

ここまでヨーロッパのニードル・レースをご紹介してきましたが、いかがでしたか?

ニードル・レースは、おもに一般女性が家計を助けるために作られるもの、修道院で集団的に作られるもの、そして、その国の経済を助ける主力商品としてプロの職人たちによって作られるもの、と規模は違えども、いずれも人の手と針と糸のみで大変な時間と労力を割いて作り上げられます。
さらにその技術を持った技術者は、ボビン・レースを織る技術者の1万分の1しかいなかった、という話もあるほど希少な工芸品です。
その希少性に加えて、芸術性の高い美しさと技術の高さ。まさに「糸の宝石」ですね。

今ではその「糸の宝石」を王侯貴族でなくとも手にすることができますが、技術者が減少し続けていることを考えると、そのうちに博物館でしかお目にかかれなくなってしまうかもしれません。
ですので、ハンドメイドのニードル・レースを見る機会があったら、ぜひ一度でも見に行かれることをお勧めします。アンティーク・レース愛好者が多い日本では、案外展覧会もしばしば開かれたりしていますよ。

さて、次回からは、ニードル・レースと並ぶヨーロッパのレース技法の代表格、ボビン・レースをご紹介していきたいと思います。お楽しみに。

文/佐藤 かやの(フリーライター)

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